住古の昔、古大和川と淀川の土砂で「難波の八十島」が生まれ、上流から流れ着いた藤が「野田州」に根着き、平安時代末期には、現在の野田・玉川付近の入り江に繁茂していました。鎌倉時代には太政大臣西園寺公経が和歌を詠み、室町時代には二代将軍足利義詮が、安土桃山時代には豊臣秀吉が藤見に訪れました。大阪冬の陣の前哨戦「野田福島の合戦」でこの付近は廃墟になり、しかし元禄時代には復興しました。江戸時代中期には、代々の大阪城代や大阪町奉行、太田南畝(蜀山人)など文人歌人が訪れ「野田の富士」の事を書き残しいます。戦前まで春日神社に残っていた古木の藤は、空襲で焼失してしまいましたが、接ぎ木により再生された子孫の藤は、区内各所で開花しています。[パンフレットの要約]
昨日足を運び写真を撮って来ました。」